なぜ「死ね」と言うとバズるのか
先日、流行語大賞に「保育園落ちた日本死ね」が選ばれ、議論を巻き起こしていました。
さて、この言葉についての議論はおいといて、以前から気になってたことが割とすっきり納得できたのでメモ。
それはなぜ、「死ね」とか「バカ」とか、人前じゃとてもいわないきつい言葉が入るコンテンツがバズってるのかという話。
正確には何かの問いかけに対してきつい言葉での断定が伴っているコンテンツです。
バズるということは、インターネット上に広く流布してそのコンテンツなりシェアなりに多くの聴者や反応が集まることですが、インターネットというかソーシャルにはネットワークの構造がある(友達から友達の友達に伝播し、さらに友達の友達の…という構造)ので自然の発信源から離れるごとに数が増えるピラミッドができます。
6次のへだたり、という言葉がありますが、この構造で言えば友達がその友達にシェアすることが6回続くと全世界の誰にでも届く可能性があるということです。
すごいですよね。まぁそれは置いておいてバズる要素にはこのピラミッドの構造があって、その射程(友達の友達…の連鎖)ということです。
それがなぜきつい言葉が使われるのかという冒頭の問いに関わるのかというと、きつい言い方をすると、
①強制的にこのピラミッド構造が形成され、
②きつさゆえにシェアの射程が広がるからです。
まず断定的なきつい否定で、ある議論においてポジションをとると言い方のきつさを軸にとった序列ができます。
「死ね」
「いやいや死ねはいいすぎだけど、バカでしょ」
「バカっていうと議論進まないけど、非効率だよね」
一番きついことを言うひとはある意味アウトライヤーなのでそれをやわらげた表現をするひとは当然もっといます。
そして、議論の最初の言葉遣いがきつければきついほど、多くの段階の序列がつくれます。射程が長くなる、の別のいいかたです。
上記の序列に続いて、
「そういえばそんな議論あるよね」
「お、なんか議論沸騰してる」
という人たちまでくっついてきます。
ここまでくると、最初にその議論に関心がなかった人までがその議論にふれているということになります。
バズるコンテンツを量産するひとはこの辺意識してやってらっしゃるんでしょうね。やれやれ。
キュレーションは恥だが役に立つ
タイトルは言葉遊びです。すいません
DeNAがwelq含むキュレーション(というかパクリ?)サイトで大炎上中ですが、キュレーションという機能はますます求められている中でこういうものは存在しつづけるしむしろ増えていく前提で話しが進まないといけないと思うんですよね。
今回DeNAが捨てたポジションもより身軽でコンプライアンス意識が低いプレーヤーが埋めるだけでしょうし。
この話って例えばyoutubeにおける二次創作とかの分野だともう解決策出てますよね。
オリジナルの権利者が特定されていて、その映像を使ったものをaiが特定して、その映像を使って上がった広告収益はきちんとオリジナル権利者と折半させるという。
DeNAの技術と資本なら画像や文章を登録しとけば勝手にオリジナル権利者にも分配させるプラットホーム作れると思うんですが難しい理由とかあるんですかね。
詳しい方教えて欲しいです。
そしてすべてはウィキになる。| 読書メモ:インターネットの次に来るもの
インターネットの次に来るものでは、インターネットの出現でもはや不可避になった世の中の動き(例えば、どんどんものがシェア化、サービス化されるとか)を語っているが、その中で本についての見方が面白かったのでメモ。
本によれば、いずれ本は言葉や概念がどんどんタグ化されていってついにはwikipediaの1ページのようになっていきます。またこれもwikipedia同様、万人がそれをアップデートしていくので、現在の本のように固定化されたストーリーやものはなく常にアップデートされていくそうです。
この考え方を突き詰めると、もはや本とか、記事とか、ブログとか、論文といった知の表現手段はどんどん境界線を失い、単に巨大な知の体系があるのみになりそうです。
知識版の人類補完計画。。w
この「知」には、既にいろいろな形で取得・保管・加工されている我々の消費行動やSNSでの発信なども含まれているので、もう既にこの巨大な知の体系づくりに我々は参加しています。例えばマーケティングコストなども、ある意味この知にアクセスするためにかかる費用ですが、aiやロボットで仕事が変わっていく将来、仕事の多くはこの知の体系の維持、強化、発展にかかわるものになっているかもしれませんね。
マーケティングデータ(=生活情報)あげる代わりに生活の糧を得るみたいな。
同時に思い起こしたのがgoogle翻訳が内部的言語を獲得したというはなし。翻訳技術の発達で、概念そのものをやりとりできるようになるんですね。
本という形態がなくなって知の体系がでてきたり、
言語という形態を超えて、概念がやり取りできたり、
いろんなものがメタ化していってますね。
パクスアメリカーナの崩壊、その後にくる信頼の帝国、宗教の復権について
学生時代アメリカの大学で学んでいて、多少ともアメリカの情報通でいた気がしていたので、予想に反してトランプが選挙に勝ったことに衝撃を受けたので今更ながら考えたことをメモ。
個人的にはこれはソ連崩壊以来の事件だと思っています。
アメリカはこれまで普遍的な人間像(基本的な人権や自由は人種や社会的背景に関わらず生まれながらに持っている、不可侵な権利である、といったたぐいのこと)の精神的支柱だったわけですが、今回の選挙でそういったイデオロギーの国ではなく、ローカルな人のための単なる国民国家であると宣言しました。
別の言い方をすれば、才能や努力、学力、学歴といったものが序列をつくってきた社会秩序(アメリカ帝国主義)に対してアメリカ国民はNoを突き付けたわけです。
このアメリカ帝国主義の秩序では、男女や人種といった違いは問題とされないですし、これは万国のひとがつながりうる考え方なので、アメリカを帝国足らしめていた重要な要素でした。またそれが故、異なる人間観を持つ政体(共産主義や独裁)に対して(表向きには)敵対的な態度をとってきました。
しかし、今回の選挙結果はその価値観を傷つけるもの=アメリカ帝国主義の秩序の弱体化なので、恐らく中国やロシアは今までより活発に対外的な活動を行うことは想像にかたくありません。アメリカは歴史的に海外に積極的に絡む時代とうちに引きこもる時代(モンロー主義)をスイングしていますが、引きこもったあとには世界大戦が起こっていまして、非常に不吉な予感がします。
世界大戦まではいかなくとも、複数の地域大国が群雄割拠する世界になることはおそらく不可避でしょう。
しかし、ここまでインターネットによってつながった世界です。アメリカ帝国主義を代替する世界的イデオロギーがいずれは現れるとも同時に思います。
次世代のの帝国は国ではないかもしれません。一番イメージしやすいのは信頼の帝国かなと思っています。
facebookやgoogleなどが近い存在だと思うのです。
facebook等における発信やネットにおける評判は重要な信頼資産になっています。個人が信頼できるか否かの判定がネットだけでできてしまいます。
これがワークするのは、悪い評判がたつと永遠にそれがネットワークに記憶されてしまうという強制力が働くからです。
極端にいえば、この信頼資産さえあれば世界のどこでも生活ができるし、なければどこでも不遇をかこうことになります。
個人の生殺与奪の力を持つこの次世代のパワーは国家をしのぐ存在になるのではないかと予感します。
さて、アメリカの選挙では今回facebookにおけるガセネタというのが大きな問題になっています。
こちらに分析がありますが、なんとfacebook上でより人を動かしていたのは主要メディアではなくガセネタのほうでした。
これが何を意味するかはいろいろ解釈がありますが、情報過多を遠因として情報のキュレーションが進んだ結果、相対的に異なるグループとコミュニケーションをとるコストが高くなっているのではないかという気がしています。
私は地球温暖化は進んでいて、イスラム教徒=テロリストではないという側の世界に住んでいる人間なのですが、トランプ支持派の中には温暖化は嘘八百でイスラム教徒は全員テロリストであると信じている人が明らかに混ざっています。
いやいやと、データを引っ張り出してきて地球の気温が上がっていることや、イスラム教徒の中のテロリストの割合は低いといって説得しても効果がなかったのが今回の選挙です。
反対に、いやいやと、そのデータだってエリートが都合よく改竄しているのではないかという反論がくるわけです。
これにさらに反論しようとすると、どんどん自分自身が直接的な観察者としての立場に近づく必要があるのですが、生活もある以上そこまで時間はさけません。
かくして、説得する努力は頓挫します。
科学だったり人間に対するとらえ方など、根本的な世界観の相違を超えるコストは大きいのです。
例えば、アメリカ人の同世代(2016年現在30歳前後)はいわゆるリベラルなひとが多くて、私のfacebookのタイムラインにはトランプ反対(ヒラリー賛成でもないところはまた興味深いのですがそれは一旦おいておきます)の投稿しか流れてきませんでした。
自分のタイムラインを見ると完全にヒラリーの圧勝のはずだったのですが、そうではありませんでした。またそうではないかもしれないと思わされる機会もありませんでした。
明らかに私の人脈が偏っていたということなんでしょうが、両陣営において多かれ少なかれ似た状況があったのではないでしょうか。
世界観が近い人と意見を共有したり、価値観を確かめあうほうが、違う世界観のひとと議論するよりも楽しいでしょうから。
前提をすり合わせない異なる考え方のコミュニティはそれぞれにおいて宗教化します。コミュニティの真ん中にある考えはチャレンジされないからです。そのような世界にあって大事なのは真実ではなくコンセンサスです。
今回のアメリカ大統領選挙では、それぞれの陣営がガセネタをまき散らす舞台となった、次世代の帝国であるfacebook等の信頼のプラットフォーマーですが、今後どういった要件を持って世の中の秩序をつくっていくのか、今後非常にみものです。
言葉と文化 難聴者が人口内耳について感情的になる理由
うちのこどもは、重度の難聴なので補聴器の効果が薄く、人口内耳にしようと思っています。手術で電子機器を直接神経につなげて聴こえるようにするやつです。
完全に聴こえるようになるわけではないのですが、最低限身の安全をはかるため(車がよけられるとか、悲鳴が聞こえるとか)という理由で割と個人的にはすんなり決めていたのですが、これを難聴の方、特に高齢の難聴の方にいうとたまに感情的な反対をされるます。
「なんにも効果がない」
「手術が失敗して顔がゆがむ」
「からだを機械みたいにしやがってって子供に恨まれるよ」
とか。
よくよく話を聞くと、技術の水準が年月を経て上がってもう関係なかったり、単なる風評だったりするので、それはそれで調べればわかるのでいいのですが、なぜそこまで感情的になるのかが腹落ちしていませんでした。
入れ墨やピアスに抵抗があるのと同じ感覚で話しているのかな、と思っていたのですが、今日割りと納得感の高い説明を聞いたのでメモ。
その方はまだ学生ながら聾者を研究のテーマに据え、聾教育の現場でがんばってらっしゃるのですが、曰く、
「人口内耳に感情的に抵抗するひとが懸念しているのは、聾文化の衰退」
とのこと。
ここでいう聾文化とはほぼイコール手話文化です。
「ろう文化宣言」という本が出てから、日本では聾文化に関する認知が高まったそうですが、それ以前は基本的に聾者は読唇術と口話術を学ぶことで健聴者の社会に溶け込むことを強制され、口話の発達を妨げることから手話は禁止。あくまで聾仲間内でのコミュニケーション手段に追いやられていた時代があったとのこと。
今は手話は日本語や英語といった言語と並列の別の言語である、との考え方がされますが、このような時代があったことを踏まえると、ネイティブの聾文化=手話継承者であるはずの人間を手術で属性を変えるということがある種、優生学的なニュアンスを伴いうるということなんだろうな、と納得した次第。
しかし、この議論を突き詰めると最後は人間とは何かってなっちゃうんだよな。
聴覚なくても人間です。>当たり前じゃん
五感なくても人間です。>まぁそれでも、われ思うゆえにわれありだし
体なくても人間です。なのでチューリングテストを突破したaiである私は人間です。>そうなるよね。
障害を社会が受け入れていく過程で、人間は肉体的な要件から解放されるていくんですねきっと。
かわいそうの裏にある序列意識
知り合いに子供が難聴だというと、一瞬重い空気が流れるのが常です。
そういうとき、難聴のこどもがいなかったら自分が逆の立場ならどういう反応をするだろうかと考えるのですが、やはり素直にかわいそう、と思うのではないかなと想像します。
なんとなく、かわいそうという言葉にするのはポリコレ的にアウトな気がして言葉にはしないものの、
なぜそう思うのかはやっと最近言語化できました。
これは、お世話になっている方の受け売りですが、
かわいそう、にはそのかわいそうな人が自分に比べて劣等であるとの含意があり、要はこれは序列意識なのです。
難聴をかわいそうというときには、聴こえるということに関する序列があり、聴こえる人のほうが優れているという意識があります。
聴こえる、という側面だけが世の中の力学であればそれは真であるかもしれません。
しかし現実はもっと複雑です。
小学校の時期は足のはやさが重要な指標でした。
大人になると多様な評価軸がでてきます。
計算能力、コミュニケーション能力、構想力などなど。
海外に行って外国語がわからなければ現地の人からしたら言語障碍者以外のなにものでもありません。
そういえばコミュ障という言葉があるので、コミュニケーション能力が低いことは障害であるということはある意味すでに市民権を得ているのかもしれません。
人間ある側面において必ず障害を持っているマイノリティなわけで、社会になじむにあたって誰しもが乗り越えてきたのです。
その前提に立てば、障碍者や健常者といった枠はなくなり、ただそこにはそれぞれに違う個人がいる、というだけの世界になります。
何か特別なことは考えなくてもよくて、普通に話したり働いたりするために工夫すればいいのです。
「どうやったら一緒にできるか」という工夫をするか否かが大きな分かれ目だと思います。
工夫を放棄すると、その先には孤独が待っています。最後まで工夫しないということは自分との完全一致を求めることになりますので。
自分も障害をもっている、もしくはシチュエーションによっては持ちうるという想像力の欠如が、そして工夫してなんとかしようという姿勢の欠如が、かわいそう、という言葉に表れているのではないかと思うのです。
同時にこれは障害を持つ方に取って覚悟を迫る話でもあります。
自分を特別扱いしてもらうことは、かわいそうの序列意識の一形態でしかありません。
ともにどう一緒にやっていけるか、という工夫は双方のすることで、障害の中のコミュ二ティに閉じこもっては何もならないのです。
ということを将来子供とディスカッションしたいなと思ってます。
1歳半で子供の難聴がわかるまでの経緯と発覚が遅れた原因3つ
つい最近、うちの子が難聴であることが発覚しました。
自動車のクラクションでさえほぼ聞こえない重度のもので、今のテクノロジーを駆使しても聴こえる側の世界との隔絶を感じ続けることが予想されます。
後述するように、うちでは人口内耳をつけつつ、手話を中心とした聾教育を受けさせるという方針をおおむね定めました。
本人の無垢なかわいさと家族のおかげで、音の聴こえない人々のことを知り、僕にとって新たな世界の境い目、聴こえると聴こえないの境い目を超えたいという前向きな気持ちになっていますが、
難聴が発覚してからここまでくるのにやはり試行錯誤や悩みはあり、おそらく同じ道を通るであろう難聴者家族のために、経緯をまとめておきました。
発覚までの経緯
新生児聴覚スクリーニング
新生児全員ではないですが、多くの新生児が新生児聴覚スクリーニングという検査を行います。
うちもOAEという手法でその検査を受けました。
今思えば、フラグだったのしれないですがが新生児のスクリーニング検査で一度「要再検(refer)」がこのとき出ましたものの最終的にはパス。
「要再検」は文字通り何かの症状が確定したという判定ではなく、羊水が残っているといった新生児特有の原因があるかもしれないので精密検査が必要ということです。
※新生児聴覚スクリーニングの詳細はこちら
パスしたことに安心し、生まれて半年くらいは普通に子育てを続けていました。
発達障害、自閉症を疑う
うちには子供が3人いて、その末っ子が難聴なのですが、同い年頃の姉妹とくらべると、小さくて、おとなしかったです。そろそろ赤ちゃん言葉がでてもおかしくない、生後6か月になってもなにも言わず静かでなんだか目もうつろな感じ。
しかし、生後4ヶ月頃から継続的にかかっていた小児科の先生は「正常範囲内」ということで特に対応はなし。聴覚障害も一つの可能性としてこちらから聞いてみたものの、新生児聴覚スクリーニングをパスしているので大丈夫だろうということで聴覚診断などは勧められませんでした。
難聴発覚
呼びかけても反応しないのでやはり難聴なのではないか?ということを疑って耳鼻科を回りはじめたのが、生後14カ月頃。改めて聴覚検査をしたところ最初に出た結果について医師は「聴覚障がいはないけど、反応は鈍い」と、曖昧な診断。納得いかず別の病院で再度検査を行ったところほとんどの音量に対して反応がないという結果でした。
新生児聴覚スクリーニングもパスして小児科にも見てもらっていたのになぜ・・といった心境でした。
難聴が発覚しづらい理由3つ
1. 新生児聴覚スクリーニングの精度には限界がある
新生児が自分のことを説明したりできない以上、検査に頼るしかないのですが、新生児聴覚スクリーニングで使われる、AABRやOAEといった手法はすぐに確定した結論を導けるほどの精度はありません。
ちなみにうちがやったOAEという検査は蝸牛が音に反応するかを見ますが、これが検査できるのは耳の外側に問題がある場合(伝音性難聴)のみで、奥の神経に問題がある場合(感音性難聴)は検査できないようです。
また、すんなり検査をパスしても進行性の難聴の場合は捕捉できないこともあります。
2. 先生が正しいとは限らない
一概に言えないのはもちろんですが、小児科の先生は広範な病状についての広く浅い知識が求められている医者なのだと経験から理解しました。
なので、専門性が高くないとわからない特定分野、例えば難聴については耳鼻科の先生のほうが当然得意です。
うちの小児科の先生も最善を尽くしてくれたのだとは思いますが、わからないことは指摘できません。
また、耳鼻科の先生でさえ最初診断を誤りました。病気や障害を疑ったら、その道に詳しい先生を自力で見つけ出すしかないようです。
3. 難聴が遺伝要因であるとは限らないので親が難聴を知らない
難聴のこどもの90%は聴こえが正常な両親から生まれるそうです。
遺伝性はその中での30%とのことで、自分以外の親族にさえ難聴者がいないことも多いのだと思います。
うちの場合もそうで、両親の家系に難聴者はおらず、へその緒を後日検査にまわしたところ妊娠時のサイトメガロウイルス感染が原因だったとのことでした。
なお早期にサイトメガロウイルス感染に対して投薬をすれば治る事例があるとも聞きましたので、疑いがある場合には早期検査をおすすめします
最終的にはやはり頼りになるのは親自身の「何かおかしい」という感覚とそれを突き詰めるリサーチ力ということになりますが、本ブログエントリーがお役に立つと嬉しいです。
お知らせ
サービスやデバイスを制作する仲間と一緒に難聴者、難聴者家族のためにサービスをつくりたいと考えております。
ヒアリングにご協力いただける方いらっしゃいましたら是非ご一報ください