さかい目マタギ

サラリーマンと自営業、アメリカと日本、難聴と健聴 といった境目をまたぐことについて思ったことを書くブログ

かわいそうの裏にある序列意識

知り合いに子供が難聴だというと、一瞬重い空気が流れるのが常です。
そういうとき、難聴のこどもがいなかったら自分が逆の立場ならどういう反応をするだろうかと考えるのですが、やはり素直にかわいそう、と思うのではないかなと想像します。

 

なんとなく、かわいそうという言葉にするのはポリコレ的にアウトな気がして言葉にはしないものの、
なぜそう思うのかはやっと最近言語化できました。

 

これは、お世話になっている方の受け売りですが、
かわいそう、にはそのかわいそうな人が自分に比べて劣等であるとの含意があり、要はこれは序列意識なのです。

 

難聴をかわいそうというときには、聴こえるということに関する序列があり、聴こえる人のほうが優れているという意識があります。

 

聴こえる、という側面だけが世の中の力学であればそれは真であるかもしれません。

 

しかし現実はもっと複雑です。
小学校の時期は足のはやさが重要な指標でした。
大人になると多様な評価軸がでてきます。
計算能力、コミュニケーション能力、構想力などなど。
海外に行って外国語がわからなければ現地の人からしたら言語障碍者以外のなにものでもありません。
そういえばコミュ障という言葉があるので、コミュニケーション能力が低いことは障害であるということはある意味すでに市民権を得ているのかもしれません。

 

人間ある側面において必ず障害を持っているマイノリティなわけで、社会になじむにあたって誰しもが乗り越えてきたのです。

 

その前提に立てば、障碍者や健常者といった枠はなくなり、ただそこにはそれぞれに違う個人がいる、というだけの世界になります。
何か特別なことは考えなくてもよくて、普通に話したり働いたりするために工夫すればいいのです。

 

「どうやったら一緒にできるか」という工夫をするか否かが大きな分かれ目だと思います。

 

工夫を放棄すると、その先には孤独が待っています。最後まで工夫しないということは自分との完全一致を求めることになりますので。

 

自分も障害をもっている、もしくはシチュエーションによっては持ちうるという想像力の欠如が、そして工夫してなんとかしようという姿勢の欠如が、かわいそう、という言葉に表れているのではないかと思うのです。

 

同時にこれは障害を持つ方に取って覚悟を迫る話でもあります。

自分を特別扱いしてもらうことは、かわいそうの序列意識の一形態でしかありません。

ともにどう一緒にやっていけるか、という工夫は双方のすることで、障害の中のコミュ二ティに閉じこもっては何もならないのです。

 

ということを将来子供とディスカッションしたいなと思ってます。