さかい目マタギ

サラリーマンと自営業、アメリカと日本、難聴と健聴 といった境目をまたぐことについて思ったことを書くブログ

言葉と文化 難聴者が人口内耳について感情的になる理由

うちのこどもは、重度の難聴なので補聴器の効果が薄く、人口内耳にしようと思っています。手術で電子機器を直接神経につなげて聴こえるようにするやつです。

完全に聴こえるようになるわけではないのですが、最低限身の安全をはかるため(車がよけられるとか、悲鳴が聞こえるとか)という理由で割と個人的にはすんなり決めていたのですが、これを難聴の方、特に高齢の難聴の方にいうとたまに感情的な反対をされるます。

「なんにも効果がない」

「手術が失敗して顔がゆがむ」

「からだを機械みたいにしやがってって子供に恨まれるよ」

とか。

よくよく話を聞くと、技術の水準が年月を経て上がってもう関係なかったり、単なる風評だったりするので、それはそれで調べればわかるのでいいのですが、なぜそこまで感情的になるのかが腹落ちしていませんでした。

入れ墨やピアスに抵抗があるのと同じ感覚で話しているのかな、と思っていたのですが、今日割りと納得感の高い説明を聞いたのでメモ。

その方はまだ学生ながら聾者を研究のテーマに据え、聾教育の現場でがんばってらっしゃるのですが、曰く、

「人口内耳に感情的に抵抗するひとが懸念しているのは、聾文化の衰退」

とのこと。

ここでいう聾文化とはほぼイコール手話文化です。

ろう文化宣言」という本が出てから、日本では聾文化に関する認知が高まったそうですが、それ以前は基本的に聾者は読唇術口話術を学ぶことで健聴者の社会に溶け込むことを強制され、口話の発達を妨げることから手話は禁止。あくまで聾仲間内でのコミュニケーション手段に追いやられていた時代があったとのこと。

今は手話は日本語や英語といった言語と並列の別の言語である、との考え方がされますが、このような時代があったことを踏まえると、ネイティブの聾文化=手話継承者であるはずの人間を手術で属性を変えるということがある種、優生学的なニュアンスを伴いうるということなんだろうな、と納得した次第。

しかし、この議論を突き詰めると最後は人間とは何かってなっちゃうんだよな。

聴覚なくても人間です。>当たり前じゃん

五感なくても人間です。>まぁそれでも、われ思うゆえにわれありだし

体なくても人間です。なのでチューリングテストを突破したaiである私は人間です。>そうなるよね。

障害を社会が受け入れていく過程で、人間は肉体的な要件から解放されるていくんですねきっと。