さかい目マタギ

サラリーマンと自営業、アメリカと日本、難聴と健聴 といった境目をまたぐことについて思ったことを書くブログ

【子供が難聴だとわかったら】バイリンガルの教育方針が頭ごなしに否定される違和感。自分の環境のみで因果関係を断定する困ったひとたち

うちの家族は、末っ子のみが難聴で周りは皆聴者です。
先日、言語聴覚士の方と話していたのですが、家庭環境を踏まえ聴力も活用しつつ手話中心で教育したいとの希望を述べたところ、

「それでは中途半端になります」
「概念の獲得が遅れたり、理解が浅くなったりします」

と割ときっぱりと言われたことにもやもやしています。

 

さて、近年手話も一つの言語であるという認識が難聴・ろう教育の現場では浸透しつつあるのだと理解していますが、そうだとすると例えば英語・中国語と日本語のバイリンガルであることと、手話・日本語のバイリンガルであることと何が違うのでしょうか。

EUでは母語プラス2言語の習得が政策として推進されていますし、個人的にビジネス関係がある多民族国家のマレーシアにおいても英語プラス民族の言語は標準装備しています。

 

実際私がお付き合いしている欧州人、マレーシア人、アメリカ人など複数言語を操るひとをみて、「概念の獲得が遅い」とか「概念の理解が浅い」と思ったことはありません。
むしろ、同じような言葉でも若干の意味のずれがあるので、多言語は概念の理解を豊かにするのではないかと思います。

言語聴覚士さんの発言に限らず、単一言語主義的なことはちらほら聞きますが、例えば関西弁やプログラミング言語をつかまえて、これは日本語標準語の概念獲得に邪魔であるというのでしょうか?

 

このような事例や自らの経験と照らし合わせて思うのは、日本が実質的に単一言語の国であるという環境が、単一言語でないと概念の獲得に影響があるという考え方の遠因ではないかということです。
そういう環境にいると、日本語がカタコトの外国人をイメージして「やまと心がわからんでは困る」とか思っちゃうのかもしれませんが、そんなことはありませんよね。デービットアトキンソンさんとか立派な日本人じゃないですか。国籍は知らないですが。

 

私は言語学者でもなく、自分の肌感覚しか言えないのでとりあえず問題提起まで。